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銀座の夜は、欲望を隠すように暗く、底知れなく
キャストの一人が合図を送る。
それを見た白鳥美容院に行くお金を惜しんで伸び切った黒髪を後ろで無造作に纏め、客の落とした灰を拾い、汚れたグラスを黙々と下げる。
頭上でだが、今夜は事情が違った。
人気キャストの「なぁ、凜。玲奈の強い希望なんだよ。今夜だけキャストとして入ってくれ」
店長が凜の前に両手を合わせ、『その顔なら客取れるって』
凜が『club断ることはできる。いつも通りホールスタッフをすればいい。
けれど、今月は足りない。臨時の出費が、まだ埋まっていなかった。「……やります」
絞り出した声は、思った以上に「分かってるって。お前のそういう真面目なところは信用してるよ。それに、ここは風俗じゃないんだ。身体を売る必要なんてない。
お得意さんがな、特別なVIPを連れてきてくれるらしいんだ。海外帰りの若手CEOで、とんでもない金持ちだし、とにかく顔がいいらしい。「それなら、私なんかじゃなく、他の方のほうが……」
「今日は金曜だ。皆接客中だし、そういう目が肥えた金持ちは、控え室に入り、手渡された華やかなドレスを広げる。ざらついた化学繊維が指先のささくれにひっかかる。
「――あの時、全て投げ捨てて逃げなければ、今の自分はどうなっていたんやろう……。
そんな思いが頭を駆け巡る。ドレスに足を通し、背中のファスナーを上げる。
姿見に映る自分を見つめた。目の下には色濃い 凜は安物のファンデーションを手に取り、
緩くうねる豊かな髪を、これでもかと左側の頬へと撫で下ろす。
鏡の中にいるのは、かつて最高級の絹を纏っていた令嬢の* * *
『山下様、お待ちしておりました』
レセプションで、店長が山下と呼ばれた、深いグレーのスーツに身を包んだ男性に深々と頭を下げる。凜も見覚えがあった。よく玲奈が接客している男だ。
そして、その背後にいた黒スーツの男へ目配せしたとき、凜は目を見開いた。 口が意思に反して、酸素を求めるように小さく開閉を繰り返す。 黒瀬
理玖の切れ長の目が凜を認めて、一瞬だけ大きく揺れた。
だが、次の瞬間には何事もなかったかのように、感情の読めない表情に戻る。 凜は左手で髪の跳ねを引っ張り、
「本日、玲奈は休みをいただいておりまして――」
歩きながら、店長が山下に向かって話し続けている。 だがその言葉は、凜自身の鼓動の高鳴りに――なんで……なんで、ここにおるん……?
「――凜!」
急に名前を呼ばれ、凜の肩が小さく跳ねる。 「すいませんね。今日が初めてなもので」 店長に背中を押され、凜は慌てて頭を下げた。「は、初めまして。玲奈の代理の凜といいます。今日はよろしくお願いします」
緊張と混乱から、声が上擦る。 「ははは。凜ちゃんね、そんなに堅くならなくていいよ」「今夜は私とこの子で、おもてなしさせていただきますね」
先輩キャストである「ほら、凜ちゃん。早く座って」
彩の声に「……なんでこんなとこにいんだよ」
理玖がほんの小さくぼやき、指先がグラスの縁で一瞬止まる。――だが次の瞬間、その手は何事もなかったかのように動き出す。 凜の「……あれ? もしかして、お二人はお知り合いですか?」
一瞬、二人の間に流れた空気の異変に気付いた彩が 凜はヒュッと喉の奥で息を
「……知らない。赤の他人だ」
口を開いたのは、理玖だった。 冷たく、淡々と。まるで初対面の他人に――いや、「……金で人を選ぶ女なんてな」
小声で付け足された言葉に、凜の呼吸が止まった。 理玖が手にしたグラスの氷が、凜には聞こえないほど小さく、悲鳴のように鳴った。カーテンの隙間から差し込む光に、凜はゆっくりと目を開けた。 見慣れた寝室。 身体にはまだ、昨夜の温もりがわずかに残っている。 耳を澄ますと、隣から寝息が小さく聞こえてくる。 視線を横へ向けた。 理玖が安らかな表情で眠っている。「……凜」 理玖がぼそりと零した寝言に、昨夜の記憶が蘇る。 触れた唇。 抱き締められた身体。 そして――。『……もう終わり?』――っ! 凜は毛布を引き上げて包まった。――うち、何言ってんの……。 思い出しただけで耳まで熱くなる。 昨夜は何かを考える余裕なんてなかった。 けれど朝になってみると、恥ずかしいことばかりを次々と思い出してしまう。 毛布から目だけを覗かせて、理玖を見る。 まだ眠っているらしい。「……よかった」 胸を撫で下ろした瞬間。「何がよかったんだ?」「えっ!?」 理玖が目を開けた。「起きてたん!?」「お前の声で起きた」「嘘や」「何でだよ」「絶対起きてたやん」「朝から元気だな」 理玖が笑う。「だって、理玖があんなことするから」「俺だけのせいか?」「……知らん」 凜はまた毛布の中へ潜り込んだ。 しばらくすると、毛布の上から頭を軽く撫でられる。「苦しくないのか?」「大丈夫」「そうか」「ねえ、理玖」「ん?」「昨日のこと」 そこまで言って、続きが出てこない。「昨日のことが何だ?」「……うち、一生忘れんと思う」 本当に言いたかったこ
――それでも、凜の身体は理玖の体温を、まだ覚えていた。 触れたままの膝から、じわじわと熱が伝わってくる。「凜、膝当たってる」 低い声が、すぐ近くで響く。――早く離れなきゃ。 そう思うのに、身体は言うことを聞かない。「俺が離れろって?」 呆れたような、それでいて少しからかうような声。 理玖のパジャマを摑む指先に力が籠もる。「……そうやないけど」「あのな、俺も男なんだぞ」「えっ」 理玖の言葉に顔を上げた。 理玖の真っ直ぐな視線とぶつかった。 捕らえられてしまったかのように、目を離すことができない。「……そんな顔で近付かれたら、勘違いするぞ」「な、何を……?」 理玖が一度大きく息を吐いた。「……何でもない」 理玖が視線を逸らし、寝返りを打とうとした。 その瞬間、凜の指が勝手に動いた。 摑んでいたパジャマを、さらに強く握る。「凜?」 言うなら今だって分かってる。――分かってる、けど。「もうちょっとだけ、こうしてたい」 絞り出した言葉は、本当に伝えたいものではなかった。 理玖の気配を感じていたいのに、自分の心臓の鼓動がうるさいほど邪魔をする。「分かった」 理玖が再び凜に向き直る。 さっきよりも、互いの呼吸が近くなった。「最初に言ったこと、覚えてるか?」「最初って?」「俺が求めた時、お前には拒否する権利はない。……そう言っただろ」 契約を結んだ時、いくつもの条件を突き付けられた。 その中に、確かにそんな約束もあった。 けれど理玖は、その条件を理由に一度も凜を求めてきたことはなかった。「……う
「凜?」「……なに?」「行かないのか?」 一瞬、息が止まった。 理玖は不思議そうにこちらを見ている。 もしかしたら、深い意味なんてなかったのかもしれない。――何一人で盛り上がってるんやろ、うち。 頬が熱くなる。「……行くよ」 毛布を畳んでソファに置き、立ち上がる。 俯き気味に理玖の横を通り過ぎようとしたところで、彼の手が額に伸びてきた。「もしかして、また体調悪いのか?」「そんなことないけど」「顔赤いぞ」 図星を指され、ますます頬が熱を持つ。「べ、別に、なってないけど」「なってる」「お風呂上がりの理玖が暑いせいちゃう?」「俺のせいかよ」 呆れたように笑う。 その表情が凜の胸の奥をくすぐった。 ほんの少し前まで、理玖とこんなふうに笑い合える日が来るなんて、想像すらしていなかった。 それなのに。 たった三日、まともに顔を合わせなかっただけで。 連絡は来る。 同じ家で暮らしていることに変わりはない。 それでも、声を聞くことも、笑顔を見ることも減った。 当たり前になりかけていたものが、ほんの数日離れただけでこんなに恋しくなるなんて思わなかった。 寝室に入り、理玖がベッドへ潜り込む。 いつもなら眠る時も外さないネックレスに、凜は指をかけた。 一瞬迷ってから外し、サイドテーブルの引き出しにそっと仕舞う。――別に、何かを期待してるわけやない。これはただ、寝るのに邪魔だから。 首筋の軽さに落ち着かないながらも、そう自分に言い聞かせる。 理玖から少し距離を空け、ベッドの端に浅く腰掛ける。 二人分の体重を受けたマットレスが小さく軋んだ。「どうした? 寝ないのか?」「……うん」「やっぱり
理玖とまともに顔を合わせなくなって、三日が経った。 朝起きると、理玖はもういない。 夜も凜が眠る時間になっても帰ってこない日が続いた。 それでも、以前とは違う。『昼飯は食堂のうどん』『今日も遅くなる』『会社に泊まる。先に寝てろ』 短いながらも、こまめに連絡は来た。 凜も、『分かった』『無理せんといてね』 そう返す。 指先で理玖からのメッセージをそっとなぞる。 たった数行のやり取りなのに、以前よりずっと近くに感じられた。 それでも。 広い部屋で一人きりになると、やけに静かだった。 スーパーでタイムセールになっていた惣菜を食べ終え、ソファに座ってスマートフォンを眺める。 午後八時を少し回ったばかり。 理玖からのメッセージはまだなかった。――今日も遅いんかな。 そう思った時。 玄関から鍵の解錠音が響いた。 凜は顔を上げる。――え? 聞き間違いかと思ったが、入り込んできたぬるい外気が頬を撫でた。 続いて、理玖の「ただいま」という声。 ソファから立ち上がり、足早に玄関へ向かう。「おかえり」「すまん、スマホの電源切れた」「今日は早かったんやね」「ようやく、一段落ついた」 理玖が靴を脱ごうとして、一歩蹌踉めいた。「理玖!?」 咄嗟に彼の腕を摑む。「ちょっとふらついただけだ。大丈夫」 そう言う理玖の目には、深い隈が刻まれている。「せやけど、休んだほうがええよ」 理玖の手を引いたままリビングのソファに座らせる。 脱いだスーツのジャケットを預かる。 汗に混じった、どこか懐かしい匂いが鼻を掠めた。 ジャケットをハンガーにかけ、キッチンで理玖のマグカップに麦茶を注ぐ。 ローテーブルに置くと、理玖は喉を鳴
昼を過ぎた頃。「社長、白川の来訪者記録が届きました」 希美の声に、理玖はノートパソコンから顔を上げた。「山下はいたか?」「システムトラブル前一週間だけでも、山下という名字の来訪者が五人います」「まあ、そうなるよな」 珍しい名字ではない。 名字という手がかりだけでは、それくらい出てきても不思議ではなかった。「ただ、訪問部署と訪問理由で絞ると、この二名が有力かと思います」 希美が画面をこちらへ向ける。「一人目は六日前。情報システム部門を訪問しています」「もう一人は?」「四日前です。こちらも同じ部署です」「防犯カメラは?」「二人とも残っています」 希美が最初の映像を開き、時間を合わせる。 受付で来客用カードを受け取っているのは、五十代くらいの小太りな男だった。「違うな」「では、二人目です」 別のファイルを開く。 シークバーの操作に合わせて、何人もの人間が受付を通り過ぎていく。 希美が通常再生に切り替える。 受付にやって来た男を見た瞬間、理玖の目が留まった。 後ろ姿に見覚えがある。 そして、男が振り返った。 ポケットからスマートフォンを取り出す。 希美が数秒戻し、もう一度再生する。 男が横を向いたところで再び止めた。 鮮明とは言えない。 それでも、背格好と目元には見覚えがあった。 理玖は画面に顔を近付け、目を凝らす。「……こいつだ」「間違いないですか?」「ああ」 名前だけなら偶然で片付けられたかもしれない。 だが、今は違う。 凜の義弟の大雅と一緒に現れた、あの男だった。「何の用件で来てる?」「旧システムとの調整業務となっています」「以前から出入りしているのか?」 希美がキーボード
翌朝九時。 KWS本社の会議室で、理玖は欠伸を噛み殺しながらノートパソコンの画面を睨んでいた。 ブラインドの隙間から入り込む陽射しが、短い仮眠を挟んだだけの目に沁みる。 白川ホールディングスのシステムは、一部を除いて復旧が進んでいる。 だが、KWSを取り巻く状況は別だった。 昨夜からニュースサイトには関連記事が増え続け、KWSの名前は何度も見出しに上がっている。 前日に大きく値を下げた株価も、まだ安心できる状況ではない。 システムだけ直せば終わる話ではなくなっていた。 復旧したと発表したところで、原因が分からないままでは同じことがまた起きると思われるだけだ。 KWS側に問題がなかったとしても、それを証明できなければ意味がない。 そして、肝心の原因もまだ分かっていない。 理玖は重くなった瞼を指で押さえ、再び画面へ目を戻した。「社長」 向かい側に座る高遠希美が、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。 理玖と同じくほとんど寝ていないはずなのに、芯の通った声はいつも通りだった。「お前、眠くないのか?」「眠いですが、仕事ですから。それよりも、見てください」 理玖は希美のノートパソコンを覗き込む。「白川から届いた、追加の資料です」「何の資料だ?」「白川が以前から契約している外部業者の一覧です。旧システムの保守や、今回の移行作業で一時的に権限を持っていた業者も含まれています」「KWS側じゃなく、白川側の業者か」「はい」「全部出してきたのか?」「はい。白川紗夜さんから、調査に必要なものは全て開示するよう指示があったそうです」「……そうか」 堂島の紹介があったとはいえ、今回の案件をKWSへ持ち込んだのは紗夜だ。 白川ホールディングス内では、その采配の是非を問う声も出始めていると聞いている。 それでも、紗夜がKWSへ責任を押しつけるような