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冷酷CEOは没落した初恋相手を逃がさない~8年越しの誤解から始まる、愛憎の契約結婚~
冷酷CEOは没落した初恋相手を逃がさない~8年越しの誤解から始まる、愛憎の契約結婚~
Author: 白蛇

第一話 星屑の底の再会

Author: 白蛇
last update publish date: 2026-07-04 14:02:08

 銀座の夜は、欲望を隠すように暗く、底知れなく眩まばゆい。

 高級会員制クラブ『club Estrellaエストレージャ』。ミッドナイトブルーの絨毯じゅうたんと、滝のようなクリスタルシャンデリアが頭上で煌きらめく。

 キャストの一人が合図を送る。

 それを見た白鳥凜りんは、足音を殺して素早く駆け回った。

 装飾のない地味な黒のパンツスーツに身を包み、ただ床を這い回る影になる。それが、凜の仕事だった。

 美容院に行くお金を惜しんで伸び切った黒髪を後ろで無造作に纏め、客の落とした灰を拾い、汚れたグラスを黙々と下げる。

 頭上で眩まばゆく輝くシャンデリアを見上げる余裕さえない。かつて名家の令嬢であったはずの凜は、今やこの華やかな世界の底辺で、ただ床を這い回る影でしかなかった。

 だが、今夜は事情が違った。

 人気キャストの玲奈れいなが、急な体調不良を理由に欠勤したのだが、なぜか「代役には、裏方の凜を」と店長に名指しで頼んできたらしい。

「なぁ、凜。玲奈の強い希望なんだよ。今夜だけキャストとして入ってくれ」

 店長が凜の前に両手を合わせ、大袈裟おおげさなまでに頭を下げる。

『その顔なら客取れるって』

 凜が『club Estrellaエストレージャ』に入店した頃から、玲奈が幾度いくどとなく冗談めかして言っていた言葉が頭を過よぎる。

――もしかして、本気で言ってたんやろか……。

 断ることはできる。いつも通りホールスタッフをすればいい。

 けれど、今月は足りない。臨時の出費が、まだ埋まっていなかった。

「……やります」

 絞り出した声は、思った以上に掠かすれた。

「……お酒のお相手や、会話はさせていただきます。でも、それ以上のこと……身体を売るような真似は絶対にしません」

 凜が真面目な顔で話した内容に、店長は苦笑しながら大きく頷く。

「分かってるって。お前のそういう真面目なところは信用してるよ。それに、ここは風俗じゃないんだ。身体を売る必要なんてない。

 お得意さんがな、特別なVIPを連れてきてくれるらしいんだ。海外帰りの若手CEOで、とんでもない金持ちだし、とにかく顔がいいらしい。粗相そそうだけはしないように気を付けてくれな」

「それなら、私なんかじゃなく、他の方のほうが……」

「今日は金曜だ。皆接客中だし、そういう目が肥えた金持ちは、初心うぶな方がウケるんだよ。それに、凜なら任せられると思ってな」

 店長はそれだけを告げて、ドレスを押し付けて立ち去ってしまった。

 控え室に入り、手渡された華やかなドレスを広げる。ざらついた化学繊維が指先のささくれにひっかかる。

「初心うぶ、か……」

 店長の言葉を反芻はんすうし、自嘲じちょう気味に口角を上げた。

――あの時、全て投げ捨てて逃げなければ、今の自分はどうなっていたんやろう……。

 そんな思いが頭を駆け巡る。

 ドレスに足を通し、背中のファスナーを上げる。

 姿見に映る自分を見つめた。目の下には色濃い隈くまが浮いている。

 凜は安物のファンデーションを手に取り、隈くまを隠そうと執拗しつように肌へ叩き込む。

 塗り固めた肌は指先にざらりと馴染まない。

 緩くうねる豊かな髪を、これでもかと左側の頬へと撫で下ろす。

鏡の中にいるのは、かつて最高級の絹を纏っていた令嬢の残骸ざんがい。ただの、死んだ目をした女だった。

 八年前のあの日から、凜の時間は止まったままだった。

* * *

『山下様、お待ちしておりました』

 レセプションで、店長が山下と呼ばれた、深いグレーのスーツに身を包んだ男性に深々と頭を下げる。

 凜も見覚えがあった。よく玲奈が接客している男だ。

 そして、その背後にいた黒スーツの男へ目配せしたとき、凜は目を見開いた。

 口が意思に反して、酸素を求めるように小さく開閉を繰り返す。

 黒瀬理玖りく――八年前、私の前から姿を消した、初恋の人がそこにいた。

 だが、凜の記憶にある優しい少年ではなかった。

 体に寸分の隙もなくフィットした艷つややかなダークネイビーのスーツ。隙なく締められたネクタイと、冷徹に研ぎ澄まされた端正な美貌びぼう。

 理玖の切れ長の目が凜を認めて、一瞬だけ大きく揺れた。

 だが、次の瞬間には何事もなかったかのように、感情の読めない表情に戻る。

 凜は左手で髪の跳ねを引っ張り、俯うつむきながら、VIPルームへと案内される山下たちの背後に続く。

「本日、玲奈は休みをいただいておりまして――」

 歩きながら、店長が山下に向かって話し続けている。

 だがその言葉は、凜自身の鼓動の高鳴りに掻かき消されていく。

――なんで……なんで、ここにおるん……?

 溢あふれそうになる京都弁を、奥歯を噛んで飲み込む。

「――凜!」

 急に名前を呼ばれ、凜の肩が小さく跳ねる。

「すいませんね。今日が初めてなもので」

 店長に背中を押され、凜は慌てて頭を下げた。

「は、初めまして。玲奈の代理の凜といいます。今日はよろしくお願いします」

 緊張と混乱から、声が上擦る。

「ははは。凜ちゃんね、そんなに堅くならなくていいよ」

「今夜は私とこの子で、おもてなしさせていただきますね」

 先輩キャストである彩あやが、手慣れた動作で山下の左手側に滑り込む。

「お、彩ちゃんか。今日も綺麗きれいだね」

 山下は上機嫌で応じ、凜の方を見て右手でソファを軽く叩いた。

「ほら、凜ちゃん。早く座って」

 彩の声に促うながされ、そっと腰を下ろす。左手に山下、そして右手に理玖。

 すぐ傍から、高価な香水の香りが漂う。それは、記憶に残る彼の匂いよりもずっと鋭利で、冷ややかだった。

「……なんでこんなとこにいんだよ」

 理玖がほんの小さくぼやき、指先がグラスの縁で一瞬止まる。――だが次の瞬間、その手は何事もなかったかのように動き出す。

 凜の喉のどの奥で、息が詰まった。咄嗟とっさに理玖の顔を見たが、彼は視線を逸そらした。

「……あれ? もしかして、お二人はお知り合いですか?」

 一瞬、二人の間に流れた空気の異変に気付いた彩が訊たずねる。

 凜はヒュッと喉の奥で息を呑のむ。答えようとしても、極度の緊張で唇がうまく動かない。

――元彼氏だなんて、言えるはずもない。そんな資格、私にはない……。

 どう答えればいいのか分からなかった。

 凜が言葉を見つけ出すよりも先に――。

「……知らない。赤の他人だ」

 口を開いたのは、理玖だった。

 冷たく、淡々と。まるで初対面の他人に――いや、路傍ろぼうの石にすら向けないような、絶対零度の声で。

「……金で人を選ぶ女なんてな」

 小声で付け足された言葉に、凜の呼吸が止まった。

 理玖が手にしたグラスの氷が、凜には聞こえないほど小さく、悲鳴のように鳴った。

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